薄暗い室内で、シエルはため息をついた。 司祭館から引き出され、駐留軍司令部内にあるこの部屋に押し込められてから、もう何日になるだろう。 室内にあるものといえば、机と椅子と寝台のみ。 明かり取りの窓から差し込む光の長さから察するに、そろそろ昼過ぎといったところだろう。 彼は再びため息をつく。 敵の手に手に落ち、挙げ句にその本拠地に連行されるとは、失態もいいところだ。 目指す『聖地』は目前であるにも関わらず、そこに行くことはできない。 あとどれくらいここにいれば、聖地に向かうことができるのか。 否、それ以前に生きてここから出られるのか、定かではない。 やはり、あそこで戻るべきではなかったのか。 けれど……。 そんな思いが、何度も脳裏に浮かんでは消える。 おそらくその答えは、決して導き出されることはないだろう。 三度ためいきをついたとき、前触れもなく重い音と同時に扉が開いた。 視線をそちらに向けると、そこにはエドナの軍神あるいは黒衣の死神と呼ばれるロンドベルト・トーループが、副官のヘラ・スンを伴って立っていた。「……一軍の将が一介の神官に何の用だ?」 機嫌悪そうに低くつぶやくその人に向き直ると、ロンドベルトは声をたてずに笑った。「ご無礼はお詫びします。しかし、それもこれも、貴方が何も語ってくれないからですよ。旅の目的はおろか、名前さえも。違いますか?」 ロンドベルトの言う通りだった。 彼の名前と身分は、所持していた通行証から判明したものであり、彼自信の口から語られた訳ではない。 まるで興味を示さないとでも言うようにそっぽを向く彼をよそに、ロンドベルトはさらに続ける。「その頑(かたく)なさがご自身の立場を危うくしている。それを貴方が一番理解しているんでしょうが……」「どう思おうと、そちらの勝手だ。俺をルウツの間者だと判断するならば、処刑するなり何なり好き
アルバート・サルコウは悩んでいた。 いや、正確に言うと、ここ数日の間に目の前で起きていることを理解できずにいた。 ことの発端は、黒衣の軍神と呼ばれるイング隊隊長ロンドベルト・トーループが、戦場から前触れもなく連行してきた敵国の神官だった。 いや、その人はただの神官と言うには明らかに異なる空気をまとっていた。 まず深淵を思わせる藍色の瞳は神官というにはあまりにも鋭い光を放っている。口数こそ少ないが、発せられる言葉はこの世界を突き放しているようでもあったが、どこか悟りの境地に達しているようでもある。 そして何よりも異質だったのは、身体中に刻まれた無数の傷である。それらはあの人が今まで歩んで来た道が尋常でない苦難の積み重ねであることを現しているようであった。 加えて身のこなしや所作にはまったく無駄がなく、神官と言うよりは武人と言ったほうがしっくりくる。 だからと言って、修練にまったく通じていないという訳ではない。動けるようになるなり司祭館の書庫にこもり教典を読みふけっていたようであるし、多くは語らない言葉の端々に『見えざる者』への信仰を強く感じさせられた。 だが、どうしても拭いきれない違和感から、アルバートは敵国の間者が巡礼中の神官を装っているのかと疑っていた。 そこで、何度か色々と鎌をかけて見たのだが、打てば響くような返答はまさしく教えに則ったものであり、その考えは誤っていたと悟った。 けれど、アルバートはまだその人にどこか引っかかるものを感じていた。 改めてアルバートはその人がこの地に訪れてからのことを思い返す。 半生半死の状態で運ばれてきたその人が、意識を取り戻して初めて口にした言葉は、まるで自分を見殺しにしてくれと言わんばかりのものだった。 治療に当たった父親いわく、その人の記憶の奥底には二つの暗示がかけられているという。 一つは記憶を封じるもので、こちらはかなりほころびかけているらしい。 もう一つは自害を禁じるもので、対象的にこちらはかなり強固なものだという。 本来、神官が他者の記憶に手を加えることは禁じられている。 にもかかわらずそれがなされているとい
ユノーが落ち着くのを見計らってから、ミレダはややためらった後『最悪の事実』を口にした。「出てくるのはおそらく『死神』だ。おまけに彼は前回あいつに逃げられている。躍起になっているだろう。それでも?」「それは……」 返答に詰まるユノー。 小さくため息をついてから、ミレダはわずかに頭を揺らした。「すまない。お前は本当にに正直だな。あいつとは大違いだ」 果たして誉められているのかおちょくられているのか、ユノーは計りかねていた。 けれど、ただ一つだけ理解したことがある。 それは、ひよこどころか卵であるにも関わらず、名うての戦上手を相手に負けないなどという大それたことを口にしたという事実だった。 事の重大さに口を閉ざすユノーに、だがミレダは意外にも優しく微笑みかける。「で……殿下?」「確かにお前の言う通りなんだがな。もう一度あいつに会って、苦情の一つも言ってやらないと私の気持ちも収まらない」 それに戦う前から負ける気でいては、起きるはずの奇跡も逃げてしまうな。 言いながらミレダは形の良い足を組み直す。 その時ユノーは、ふと浮かんだ疑問を口にした。「失礼ながら、殿下はどうして戦場へおもむかれるのですか?」 突然の問いかけに、何事かと言うようにミレダは首を傾げた。 怒声が飛んで来るのではないか。 そう思い、ユノーは咄嗟に首をすくめる。 が耳に入ってきたのは、ミレダの低い笑い声だった。 驚いたような表情を浮かべるユノーに対し、ミレダは苦笑を浮かべながら言った。「……すまない。その質問、以前誰かにしたんじゃないか?」 図星であるので、ユノーは不承不承うなずく。 その様子を目にし、ミレダはさらに笑う。「さしずめ聞かれた側は、仏頂面で死ぬためだとでも答えたんだろう
顔を上げ、そこに立っていた人物を目にするなり、シグマは豆鉄砲を食らった鳩のように飛び上がり、まるでバネ仕掛けの人形のような所作で埃の積もった床にひれ伏した。 その様子に振り返ったユノーも、同様に慌ててひざまずく。 迎えられた側は不機嫌そうな表情を浮かべて赤茶色の髪をかきあげると、後ろ手で扉を閉めながら言った。 「やめないか。ここは公の場所じゃない。第一これじゃ、まともに話せないじゃないか」 果たしてこのやり取りを幾度繰り返しただろうか。 ようやく皇帝の妹姫ミレダ・ルウツの人となりを理解してきたユノーは、軽く会釈を返した。 が、さすがに自分が目下の身分であることに変わりはないので、礼を示すため机の脇に起立する。 が、シグマはそうはいかなかった。 初めて目の前にする雲上人に、がちがちに固まったままである。 思えば騎士籍を取り戻したときの自分もそうだった。 過去の姿をシグマに重ね合わせて、ユノーは自らの複雑な運命に思いを馳せた。 一方のミレダはそんな両者に呆れたように大きく息をつく。 そして、すいとユノーに視線を転じた。 向けられてくる青緑色の瞳に何やら不穏な光を感じたユノーは、恐る恐る口を開く。 「……何か、あったのですか?」 問いかけるユノーの声は、いつになく硬い。 何事かとシグマはようやく埃のついたままの顔を上げる。 そんな二人の視線を受けるミレダの顔は、わずかに青ざめているようだった。 ユノーの脳裏に、よからぬ言葉が浮かぶ。 程なくしてそれは、音声となってミレダの口から投げかけられた。 「今日、御前議会が開かれて。……出兵が決まった」 瞬間、室内の気温がすっと下がったような気がして、ユノーはわずかに身震いした。 最悪の現実を突き付けられて、情けなくも何の言葉も出てこない。 果たしてかたわらのシグマの表情も、いつしか真剣な物へと変わっている。 「では……その時期は、いつ頃と定まったのでしょうか?」 さ
一体シグマはどうしてしまったのだろう。 驚いたようにユノーは瞬きしながらためらいがちにたずねる。 「あの……シグマさん、どうしたんですか?」 戸惑いを隠せないユノーを前に、シグマはようやく笑いを収めるとひらひらと手を振ってみせた。 「何言ってるんだよ、坊ちゃん。大将だって人間だぜ? ここだけの話、初陣の時なんか心配で見てらんなかったくらいだったんだから」 思いもかけないその言葉に、ユノーは思わず目を見開く。 そんな彼にシグマはわずかに声をひそめて話し始めた。 「今でこそあんな大層な面構えしてるけど、初陣じゃ兜を目深に被りっぱなしでさ、顔が見えることなんかほとんど無かった。固まっているのをオレ達に悟られまいとしてたんだろうな」 初めて耳にするシーリアスの一面に、ユノーは自らの耳を疑った。 無言で見つめてくるユノーに、シグマはさらに続ける。 「無事戦が終わった後も、ずっと戦場を睨みつけて動こうとしないんだ。返り血もぬぐわないでさ。あの時はどうかしちまったのかと思ったぜ」 生まれながらの名将なんて、いるはずが無いんだよ。 そう言って片目をつぶってみせるシグマに、ユノーは曖昧に笑うのが精一杯だった。 そんなユノーをよそに、シグマは言葉を継いだ。 「それで……帰還してから、大将を飲みに誘ったんだ。最初は断ってたのを無理矢理に。……正直、今も悪いことをしちまったなと思ってる」 「悪いこと、ですか?」 「ああ。あの時の大将は、普通じゃ無かった。荒れるってのとは違うんだけど、とにかく飲むんだ。それこそ浴びるように。……慌てた奴が止めたくらいにさ。後にも先にも、大将が酒を口にするところを、オレは見ていない」 おそらく全てを忘れようとしたのだろう。 目に焼き付いてしまったあの惨劇を。 ユノー自身、初陣から戻ってしばらくは血煙が舞う戦場を夢に見てうなされた。 直接敵を手にかけていない彼でさえそうだったのだから、いきなり前線で指揮を執り、敵を斬り伏せることを余儀なく
父母が存命だった幼い頃、ユノー・ロンダートにとって春の訪れは待ち遠しい物だった。 春になると降り注ぐ日差しが暖かくなり、灰色に沈んでいた街に鮮やかな色彩が戻る。 同時に、それまで陰鬱としていた人々の顔に明るい笑みが戻る。 おそらくユノーは、子どもながらにそれを感じ取っていたのだろう。 だが、父母がこの世を去ってから、ユノーの周囲は色彩を失い長い冬という状況だった。 が、晴れて騎士籍を取り戻した瞬間、唐突に世界に色彩は戻った。 おそらく長い冬を終えた後、再び明るい春が訪れると信じて疑ってはいなかった。 けれど、実際はどうだろう。 日が長くなり、空気が暖かくなるにつれ、彼の心は反比例するように暗く重くなっていった。『無紋の勇者』と恐れられたシーリアス・マルケノフが前触れも無く姿を消したこの冬は、新米騎士のユノーにとって父母を失って以来の厳しい時となった。 皇帝の妹姫の独断で半ば強引に蒼の隊の指揮権を引き継いだユノーは、彼女の手ほどきで剣の修練を積んでいた。 その努力の甲斐あって、剣技の方はどうにか戦士たりえる物に手がかかる程度に上達したのだが、どうしても埋められない物があった。 それは、戦場における経験である。 いかに腕が立っても、本能的に戦の機を見極める目を、彼は未だ持ってはいなかった。 結果、彼は寸暇を惜しんで、ある物を抱えいつしかここに通うようになっていた。 かつてシーリアスが一人住んでいた、官舎区域の片隅にある小さな家に。 目の前に積み上げられているのは、皇帝姉妹の従兄弟にあたるフリッツ公から渡された兵法の入門書だった。 敵を迎え撃つにはどうすれば良いか。 いかにして味方の損害を抑えつつ敵に被害を与えるか。 つまりは、効率的に人を殺す方法を学んでいるのである。 それは、心根の優しいユノーにとって辛い物だった。 加えて、どんなに辛い思いをしてみても付け焼き刃に過ぎないことを理解していた。 けれど、まかりなりにも一軍の将を任されたのだから、責任は果たさなければならない、そんな思いが今の彼を突き動かし